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サイレントノイズ(2)(オリジナル)

投稿者:パプ@とん
2013/10/21 19:48 [ 修正 ]
前回の続きです。まだまだ続きそう……。
音楽一筋な孤高な女性って、なんかすごくかっこいいと思います。そんな彼女も、とある少女に心惹かれて……。
――翌日。
教壇では先生が何を求めるのかも定かではない公式をサラサラと黒板に並べていた。
あたしはそれを尻目に、イヤホンから流れる『千年の夏』に耳を傾け、空を眺めていた。
――雲が流れていくことを不思議に思う人間はいない。
そして、今自分がこの時代に生きている事を不思議に思う人間も、恐らくそうはいないだろう。さらに言うと、今そんなことで深く悩んでいるのは、世界中でたったあたし一人だけなのかもしれない。
何故あたしは、この時代に生まれてきてしまったんだ……。
この時代に生れなければ、あたしはあんな奇妙な人間に一生出会わずに済んだというのに……。
『私と友達になってください』
昨日の手紙……。
その一文だけが、幾重も罫線が引かれた便箋の中央に、小さな文字で綴られていた。それはもう、不気味なほどに……。すでにホラーなレベルだ。いい怪談話になりそうなものだった。
このブツのおかげで、昨日あたしは家に帰った後も作曲作業が全く手つかずになっていた。普段なら、パソコンとMIDIキーボードに挟まれたと同時に、あたしの意識はデスクトップ上のノートの中にいるのだが、昨日はいつまで経っても頭から放課後の出来事が離れず、集中ができなかった。そして、その時決まって浮かんでくるのは、あの小憎らしい少女の端整な頬笑みだった。もぅ~むしゃくしゃしてむしゃくしゃして、集中できるはずがない。
今だって、いつもなら歌詞の作成に没頭している時間なのだが、やはりどうもそこに思考がたどり着くまでに様々な雑念がチラついてしまい、後を引く。まったく全部、アイツの仕業だった。
ムクムクとわき上がる苛立ちを、耳元から流れる波の音が、宥めるように鼓膜を震わせる。
……はぁ~。
やはり、Da-Maeの音楽は偉大である。リラクゼーション効果まで持ち合わせているとは、なんて巨匠だろう。
あたしは次の曲を聴くべく手元のプレイヤーを操作し、リストの中から『月』をチョイスする。この曲も、今の荒んだあたしの心にはピッタリな曲だった。あたしは唄の世界に酔いしれて瞳を閉じる。
真っ暗な夜空と真っ黒な水平線の狭間でたゆたう、自分の姿を思い浮かべる。なんと心安らぐメロディーだろうか。あたしは恍惚として、ふと薄眼を開いた。
――と、そこには超度アップの少女の顔が……
「どわっっ!?」
あたしは思わず椅子と共に大きく仰け反る。
そして、ガタンと椅子が戻ると同時に、おでこに強い衝撃が。
「ィッターーーーっ!!」
どうやら目の前のその少女と頭をぶつけてしまったらしい。ズキンズキンと、頭に重い痛みが走る。彼女も痛いのだろうか、ぷるぷると震えて痛みを耐え忍んでいるようだった。
そしてあたしは、その人物の姿を改めて確認する。
コイツは……紛れもなく昨日あたしに手紙を渡してきた、謎の少女だ。
最悪だ。
いや……災厄だった。
せっかくの安らぎの時が、またもコイツに妨害されたのだ。
というか、今は数学の授業中じゃなかったのか? 辺りを見渡すと、周囲の生徒はすでに各々好き勝手に散らばっている。どうやら授業はもう終わって、昼休みに入ったところなのだろう……イヤホンをしていて、終業のチャイムに気がつかなかったというわけだ。まぁ、あたしにとってチャイムに気付かないことぐらいは日常茶飯事なのだが、そのことに頭突きで気づかされたのは生まれてこのかた初めてだった。
つまるところ、この少女の存在だけが明らかにあたしの日常に反していたのだ。
「もーっ! なんなのアンタ、昨日から!! あたしに付きまとわないでよっ!!」
もうこの際、ハッキリと言ってやった。
あたしは辛辣な言葉を頭で模索し、並べる。
「邪魔なのよ! あたしは別に誰とも友達になんてなりたくはないのっ、これっぽちも! まさかいつも一人だからって同情してくれたわけ? おあいにくさま、そういうのもう間に合ってるんで。さっさとどっか行ってくれません?」
ここまで言ったら、さすがのコイツでも理解してくれるだろう。大声を出してしまったせいでだいぶ人の注目を集めてしまったが、この際しょうがない。いつもの平穏な生活を取り戻すためだ。これぐらいの代償はくれてやろう。
少女はあたしの怒声を受け、目線を下に落とした。
そう――それはまるで、幼い子供が興味本位で近づいたオオカミに突然吠えられ、怯えているかのように。
おぉ……手応えあり。やっとあたしがアンタを邪険にしている事に気付いてくれたか。
これであたしの安穏な生活も取り戻されるというわけだ。いや~、良きかな良きかな。これで一件落着である。
だが……この少女、そこまで簡単な人間じゃないらしい。
なんと――彼女の落とした視線の先には、自らの手。そして――そこに持たれているのは、黄色い布に包まれた奇妙な四角い箱。
「…………あの~……それ、は……」
あたしは恐れ慄きながら尋ねる。
だが彼女は何の反応も見せずに、あたしの前の席に極自然に座ると、椅子をこちらに向けて手に持っていた布をオープン。そして、そこにはタッパーウェアの容器に入った、それはそれは美味しそうな……
「いやいやいやっ、帰りなさいよっ! 今の絶対意気消沈して帰るところでしょっ!? 今帰らないでいつ帰るのよっ! っていうか、何ナチュラルに弁当食おうとしてんのよっ!!」
そんなあたしの全力の突っ込みさえも無視して、すでに口をもぐもぐさせて食事を始めている傲慢少女。その食べ物を詰めて膨らんだ頬を、あたしはこれでもかというほど引っ張ってやる。
「お~い、聞いてますかっ。 早く帰れ~っ!」
彼女は痛そうに眼を瞑る。
そして痛みに耐えかねたのか、その硬く結ばれていた口が突然開かれる。
……必然的に、重力に従順な口内物が唾液と一緒に流れ落ちた。
「うわっ、おまっ、汚なっ!!」
最悪だ。
いや……災厄だった。
「早く口閉じなさいよっ! もうっ、何なのよアンタ、ホント……っ」
あたしは机の上に放たれた少女のソレを嫌嫌ティッシュで処理する。あぁ汚い汚い……なんであたし、今こんなことしてるの?
少女は悪びれた顔はするものの、それでもなお席を立とうとはしなかった。意地でもここに居座るつもりらしい。
「…………はぁ~……」
あたしはとうとう諦めた。
そもそも、こんなことに時間を割いていること事態が、あたしには無駄だった。ここは手っ取り早くすませ、とりあえずコイツのことは適当にあしらっとくことにしよう。
あたしは彼女のソレを早々に処理し終えると、目の前の彼女を完全無視して、机の中の作詞ノートに意識を戻した。
右手にシャープを握り、左手は額に添えて前方の視界を遮った。寝不足気味の頭を懸命に働かせ、メロディーを追って言葉を詰めていく。
……。
…………。
……………………やっぱ、集中できなかった。
意識がどうしても前方の少女に向いてしまって、捕えられるはずの言葉たちが手近で拡散するかのように散らばって逃げていってしまう。
そしてさらに、あたしの意識はまた余計な所に行き着いてしまう。
――彼女の昨日の行動を思い出す。
あたしの歌詞を指差し、恥かしい想いをさせられた、あの時のことを……。
無性に前方の視線が気になり、あたしはゆっくりと視線をあげる。
――案の定、彼女の視線はあたしのノートに向いていた。
(パタンッ!!)
あたしは勢いよくノートを閉じる。その間、コンマ1秒ほど。
少女はどこか残念そうな顔をしたが、やがて自らの食事に再び没頭する。
……弱った。
コイツがいたら、あたしは何もできない……というか何だコイツ、少しは憚れよっ。
あたしは何だか凄まじく気疲れしていた。
これはもう……なんかもうどうしようもない。何もかもが、なんかもう、もうどうしようもない。
作詞ができない今、あたしに残された時間を有効に使う唯一の手段は栄養補給だけだった。あたしは自分の鞄から今朝コンビニで買ってきた菓子パン二個とコーヒー牛乳を取り出す。いつも買っているものと同じやつだ。甘い物は頭の回転を良くする。それにパンは片手間で摂取することもできる。
包装を破り、中のパンを頬張る。甘いジャムの香りが口の中いっぱいに広がる。
……今思うと、これではあたしがこの少女と一緒に昼食を取っているようではないか?
何だかそれは物凄く気に食わないが、まぁこの際仕方のないことだろう。だってあたしには、他にする事がないのだから。 あたしがなぜ見知らぬ少女に対して妥協しているか真剣に考えつつパンを食べ進めていると、不意に彼女の目があたしのパンを射ぬいているのに気がついた。
……何をそんなに見る?
あたしがこんなの食べてて、何か悪いのだろうか。
少女はやがて、おもむろに口を大きく開いてそれをこちらに向けてきた。
……何のつもりだ? ……威嚇だろうか?
訝しく様子を窺うが、彼女はずっとその姿勢を崩さない。
一体何なのだ。もうコイツは何をしても本当に訳がわからない。もう無視だ、無視無視。
再びパンを頬張り始めると、次に彼女はあたしの手をトントンと叩きだした。
だからなんだっ、ハッキリ言えよ! まぁ言ってもイヤホンしてるから聞こえないけれど!
「何っ!?」
彼女はなぜかとても楽しそうな顔で、あたしのパンをまた指差す。そして、その指を自分の開いたままの口の方に移した。
……あぁ、そういうことか。
あたしは彼女の意図を理解し、少し考えて手でOKサインを作って見せる。パッと明るく嬉々とした表情で、彼女は口を開いて目を閉じた。
あたしはおもむろに机の片隅に置いてあった自分の消しゴムを彼女の口の中に放り込んでやった。やがて、嬉しそうに笑った彼女は、もぐもぐとプラスチックゴムを咀嚼。咀嚼……。咀嚼………………ダラァ~~~~。
「うわっ、おまっ、汚なっ!!」
最悪だ。
いや……これは自業自得だった。
彼女は、またもや口内物を机の上に垂れ流しにした。なんて行儀の悪いやつだろう、どんな教育を受けてきたのだか。それとも体に消化器官が備わっていないだけだろうか。
彼女はとても怒っているようだった。その表情で訳すとすると、「もぉ~お~。アタイ、怒りんこぷんぷんっなんだからねっ!」ってな具合だった。
想像して不覚にも軽く笑ってしまっていたあたしの手を、少女はペシペシと叩く。だが、それ程痛くはない。これで少しは仕返しができたというものだ。ざまー見ろ。
愉悦に浸っていると、彼女は仕返しとばかりに素早い動きで机上にあったあたしのコーヒー牛乳を引っ手繰ってきた。
「あぁっ! あたしの大事なカフェインっ!」
彼女は何の遠慮もなしにあたしの飲みかけのコーヒー牛乳をどんどんと口に流し込んでゆく。そして、タンッという軽い音が鳴りそうな勢いで空のパックが机の上に叩き置かれた。
「アンタ全部飲んだわねっ! 弁償しなさいよ、弁償っ!!」
彼女は「ふんっ、知らないもんっ。アタイ消しゴムのあとはコーヒーって決めてるんだものぷんぷんっ」というような、したり顔をしてみせた。
くそ……これではさっきのあたしの仕返しが帳消しじゃないか。また何か手を打たなければ……っ。
――と、あたしはそこまで考えて思考を止めた。
あたしは何を向きになっているのだ。こんな奴、構うだけ時間の無駄だと、最初に言ってたのはどこの誰だった?
「…………ふぅ……」
あたしはクールダウンし、さも何事も無かったかのようにまた自分の席についた。
どこか虚をつかれたように呆然とした彼女は、やがて少し寂しそうな顔をして、また手元の弁当を突っつき始めた。……どうやらあたしのパンはもう諦めてもらえたようだった。
それにしても、あたしは次コイツが現れた時のために何か対策を打っておかなければならなかった。また時間を無駄にさせられてはたまったもんじゃないから。
……なんだか昨日から、あたしはコイツの事で思考を使い過ぎだ。
冗談じゃない。早くこの非日常から脱しなければ……。
程なくして、不意に彼女は立ちあがった。
何事かと見上げると、どこか名残惜しげな表情をしている。そんな顔をするなっ、気色悪い。
時計を確認すると午後の授業の始業5分前だった。辺りの生徒も各々自分の座席に戻り始めている。
コイツに構っていたせいで、あたしは食事を全て取る時間さえ危うかった。急いで残りのパンを頬張っていく。彼女はそんなあたしを尻目に、極自然にどこかへと立ち去っていった。
……薄情な奴である。
時間になったらそそくさと帰っていくとは。それなら最初からこんなとこ来るな。
やがてあたしも食事を終える。だが、パサパサのパンを急いで頬張ったので喉が詰まりそうだった。あたしはコーヒー牛乳を飲もうと、そのパックに手を伸ばす。
――が、そこであたしは先程アイツにそれを全部飲まれたことを思い出した。
うわ最悪……このままだと窒息死しかねない。今から買いに行ってもいいのだけれど……。
困り果てていると、ふとあたしは視線の端にポツンと置かれたペットボトルを発見した。
……確かこれはアイツが持ってきていたやつだ。きっと忘れていったのだろう、中にはまだ半分ほどの緑茶が残っていた。
なるほどアイツも少しは役に立つらしい。あたしはそれを手に取り、コーヒー牛乳の仕返しとばかりに一気に飲み干してやった。
(でもそう言えば、これって間接キスなんじゃ……)
あたしは、ウザさが移りそうで怖いな……何て事を考えながら、自らの口元を制服の袖で拭った。
――外は一面の灰色世界だった。
少なくとも、あたしにはこの世界がそのように見えていた。
息もできないその世界へ、あたしが自ら出ていくことなど絶対にありえない。何故なら、あたしの辺りには色鮮やかで綺麗な花々がいつでも咲き誇って、あたしのことをずっと見守ってくれているだから……。
耳から響いてくるのは『花庭』。
美しい変拍子のピアノリフが切ない、とても扇情的な曲だ。センシティブなあたしも、おもわずセンチメンタルになる。もちろん、あたしの周りに本物の花など一輪も存在しない。
だが……その代わりといってはなんだが、あたしの周りには一面の真っ暗闇の世界が存在していた。
――あたしにはもう、何も怖いものなどない。何故ならこの暗闇が、あたしのことを外敵から守ってくれるのだから。
……気配がする。
おそらく……ヤツが現れたのだ。
あたしは軽く身構える。真っ暗闇な世界で、見えない敵と対峙する。
やがて、ヤツはあたしの手の甲や肩にヒット1ぐらいの細やかな攻撃を繰り出してくる。だが――あたしは決して動じない。もちろん、反撃にでるようなこともしない。
……世界は、驚くほど平和だった。程なくして、その攻撃もついに止む。あたしのヒットポイントはまだまだグリーンゾーンのままであった。
そして――あたしは確かに、前方のその気配が姿を消すのをこの肌で感じ取ったのだった。
…………やった。
そう……あたしは勝ったのだ。
ラスボス級に頑なだった、あの傲慢不遜少女に――。
一昨日の帰宅後、あたしはすぐにアイツから逃れるための術をあれこれと思案した。
結果、たどり着いたのがこの超暗幕アイマスクだった。
このアイマスク、何が凄いかというと、あらゆる邪魔な視界を遮断してくれるという優れものなのだ。ここでいう邪魔な視界というのは、言わずもがなあの少女の姿、形のことを指す。
さらにこのアイマスク、着けているだけ彼女を退ける力を備えている。例えば、アイマスクとイヤホンを付けているあたしにヤツが近づいてくる。だが、さすがに視覚も聴覚も閉ざされた人間にコンタクトを取ることはほぼ不可能。するとあら不思議、あそこまで頑なだった彼女も、さすがに諦めて立ち去ってくれるのだ。さらにあたし自信も彼女の事が見えないので何の反応もせずに済むという一石二鳥。
あぁ、なんという妙案だろうか。彼女のことを気にせずに済む分、頭の中で歌詞も考えることができるという完ぺきぶりだ。アイマスク様様である。ぜひ君も、希望に満ちた暗幕ライフを。今ご注文の方に限り、もれなくあたしの使用法解説書をお付けいたします。
どこぞの通販番組みたいになってしまったが、つまりは最強の武器を手にしたあたしにもう怖いものなど何もなかった。
アイツに不吉な手紙を渡されて早三日が過ぎ、そしてその奇妙な関係も昨日でようやく断たれたのだった。
今あたしは、とても平穏な昼食タイムをとても優雅に楽しんでいた。鼓膜を揺さぶる『Liking is life and Melody』のサビの旋律が、気疲れし切った体にとても心地よく響く。
いつものパンをいつものペースで食べ、いつものコーヒー牛乳をいつもの分量飲む。それは、なんて幸せなことなのだろうか。変わらないことの大切さを身を持って知った、そんな日々だったように今なら思えた。
十全なる幸福感で食事を楽しんでいたあたし。こんな幸せが、いつまでも続くと思っていた。
と――不意に、あたしは由来のわからない寒気を覚える。
……嫌な予感がする。
つまり――ヤツが現れそうな気配だった。
昨日、完全に撃退に成功したと思っていたが、まだ諦めていなかったのだろうか?
まぁいい……あたしには、この超暗幕アイマスクがある。今日もこれで返り討ちにしてやればいい話なのだ。
アイマスクは装着完了。程なくして、前方にヤツの気配を確認した。
やはり来たか……。何故あたしが彼女の来訪を事前に察知できたかは謎だが、まぁいずれにせよこんな予知能力、もう使う事もなくなるだろう。何故なら……今日ここで、あたしはコイツを完全に打ちのめしてやるつもりだからだ。
あたしは臨戦態勢をとる。
さぁ、この完全なる寝たふり形態をどのようにして突破する? ふふっ、無理だろう……何せ、この要塞を突破した者は、未だ一人としていないのだから。
彼女はやはり困っているようだった。なかなか攻撃を仕掛けてこない。
ふふっ、持久戦のつもりならあたしにも考えがある。この時間を使って、昨日作ったメロディーに歌詞を付ける作業をさせてもらうとしよう。あたしがBメロ部の一節を考えていると、不意に突っ伏していた机の上に、何か軽い振動のようなものが伝わってくるのを感じ取った。
……ん? ……何だ、これは?
音にすると『カコンカコンッ』という感じだろうか? 何かしらの軽い物体が机の上を跳ねているような、そんな振動があたしの腕に伝わってくる。
カコンカコンッ……。
カコンカコンッ……。
カコンカコ…………ああっ!!
ま、まさかコイツ……あたしのコーヒー牛乳っ!!
なんて卑劣なヤツだろう! よくも……よくもあたしの旧友をっ!!
くっ……カフェイン、お前の犠牲、絶対忘れにはしないっ……!!
死者を一名出すという、なかなか壮絶な戦いになってきていた。
相手もいつにも増して好戦的であった。こちらも気を引き締めて臨まねばならない。少しでも隙を見せれば……こっちが殺られる。
やがて、第二打目と思われる攻撃があたしに襲いかかる。
次は、唇に何か硬いとも柔らかいとも言い難い中性的な硬さの物質が、ぐいぐいと押し付けられてきたのだった。
……これは、何だ? ……よく考えるんだ。彼女があたしにしてきそうな事を。
これはおそらく、あたしに何かを食べさせようとしているのだ。そして……彼女があたしに、食べさせたがる物とは一体なんだ?
考えを巡らしていく……。
中性的な硬さで、それでいてアイツがあたしに食べさせたがるもの…………ああっ!!
ま、まさかコレ…………消しゴムっ!?
コイツ、まだ根に持っていたのかっ!? なんて執念深い女だろう!!
あたしはすんでで食い止めていたその消しゴムを唇で挟んで素早く奪い取り、プッとスイカの種を飛ばす要領でそれを何処かへ吹き飛ばした。
さ、さぁ……次は、何だ? ……もう何でもござれだ。かかってこい。
今のあたしは、何が来ても撥ね退けてみせる自信があった。
――と、意気込んでいたあたしに、唐突な新しい攻撃が加えられる。
第三打だった。
しかもそれは、今までのものとは比べ物にならないほどの大きな衝撃だった。
なんと彼女は――あたしの腰を、こしょこしょとまさぐってきた。
これは…………ヤバイっ!
不覚にも、あたしはこちょばしに弱いのだっ!!
ぐっ……。
ぐっ、ぐぐっ…………。
ぐぐっ、ぐぐぐぐっ……………………っ
「あぁーーーー、もうっ! 鬱陶しいっ!!」
――あたしの堪忍袋の緒が三日ぶりに切れた。……というか、結局のところ忍耐力で負けた。
この争いで分かったことは、視界と聴覚だけではなく触覚までも閉ざさなければコイツには勝てないということだ。
諦めたあたしは、自らのアイマスクを外す。
世界に光が戻ったと同時に――あたしの眼前に、大きなパンダの顔が現れた。
「…………あ、アンタ……何、それ?」
そのパンダの正体は……アイマスクだった。
もちろんあたしのではない。あたしのはクマさんだ。
つまり――目の前の少女が、パンダの顔のプリントのアイマスクを、その顔面に装着していたのだ。
…………何故?
「………………ふっ………………ふふっ…………」
何で、コイツまで……アイマスクを付けている……?
「…………ふふっ……ふふふふっ…………」
…………意味が、わからない…………っ!
「ふふっ、わぁはははははははは、あはははははははははははははははっ!!」
これはヤバイっ、笑いが止まらないっ。
コ、コイツ…………正真正銘のバカなのだろうっ!?
あたしは、久しぶりに心の底から笑っていた。周りの目なんてお構いなしに、全身で……。
とにかくとにかく、コイツの事が、面白くてしかたなかった……。
そして――なぜだろう。
この時あたしは、それほど悪くない空気感を、この身に感じ始めていた。
少し落ち着いて少女を見上げると、そこにいる彼女も何故かとても可笑しそうに、その端整な顔を満面の笑みで飾っていた。
「アンタ何それっ、あたしの真似でもしたかったのっ?」
あたしは腹を押さえながら少女に尋ねる。
少女は小さく笑いながらも、頬を仄かな赤色に染めていた。
どうやら図星のようだ。「ちょっ、恥かしいやん。言わんといてっ」という顔をしている。
「それにしてもアンタ、ギャグセンス有り過ぎっ。あたしの腹筋、弁償しなさいよっ」
あたしも、それにしょうもない冗談を返す。
――これはノイズだ。
いつだって綺麗な音で飾られたあたしの世界を揺るがす、無音のノイズ……。
あたしの耳は、すでに麻痺し始めていた。
立て続けに鳴らされた彼女というノイズが、あたしの体に馴染むように浸透しているのだ。あたしの耳は不覚にも……そのノイズをそれほど不快に感じなくなっていった。
続く
教壇では先生が何を求めるのかも定かではない公式をサラサラと黒板に並べていた。
あたしはそれを尻目に、イヤホンから流れる『千年の夏』に耳を傾け、空を眺めていた。
――雲が流れていくことを不思議に思う人間はいない。
そして、今自分がこの時代に生きている事を不思議に思う人間も、恐らくそうはいないだろう。さらに言うと、今そんなことで深く悩んでいるのは、世界中でたったあたし一人だけなのかもしれない。
何故あたしは、この時代に生まれてきてしまったんだ……。
この時代に生れなければ、あたしはあんな奇妙な人間に一生出会わずに済んだというのに……。
『私と友達になってください』
昨日の手紙……。
その一文だけが、幾重も罫線が引かれた便箋の中央に、小さな文字で綴られていた。それはもう、不気味なほどに……。すでにホラーなレベルだ。いい怪談話になりそうなものだった。
このブツのおかげで、昨日あたしは家に帰った後も作曲作業が全く手つかずになっていた。普段なら、パソコンとMIDIキーボードに挟まれたと同時に、あたしの意識はデスクトップ上のノートの中にいるのだが、昨日はいつまで経っても頭から放課後の出来事が離れず、集中ができなかった。そして、その時決まって浮かんでくるのは、あの小憎らしい少女の端整な頬笑みだった。もぅ~むしゃくしゃしてむしゃくしゃして、集中できるはずがない。
今だって、いつもなら歌詞の作成に没頭している時間なのだが、やはりどうもそこに思考がたどり着くまでに様々な雑念がチラついてしまい、後を引く。まったく全部、アイツの仕業だった。
ムクムクとわき上がる苛立ちを、耳元から流れる波の音が、宥めるように鼓膜を震わせる。
……はぁ~。
やはり、Da-Maeの音楽は偉大である。リラクゼーション効果まで持ち合わせているとは、なんて巨匠だろう。
あたしは次の曲を聴くべく手元のプレイヤーを操作し、リストの中から『月』をチョイスする。この曲も、今の荒んだあたしの心にはピッタリな曲だった。あたしは唄の世界に酔いしれて瞳を閉じる。
真っ暗な夜空と真っ黒な水平線の狭間でたゆたう、自分の姿を思い浮かべる。なんと心安らぐメロディーだろうか。あたしは恍惚として、ふと薄眼を開いた。
――と、そこには超度アップの少女の顔が……
「どわっっ!?」
あたしは思わず椅子と共に大きく仰け反る。
そして、ガタンと椅子が戻ると同時に、おでこに強い衝撃が。
「ィッターーーーっ!!」
どうやら目の前のその少女と頭をぶつけてしまったらしい。ズキンズキンと、頭に重い痛みが走る。彼女も痛いのだろうか、ぷるぷると震えて痛みを耐え忍んでいるようだった。
そしてあたしは、その人物の姿を改めて確認する。
コイツは……紛れもなく昨日あたしに手紙を渡してきた、謎の少女だ。
最悪だ。
いや……災厄だった。
せっかくの安らぎの時が、またもコイツに妨害されたのだ。
というか、今は数学の授業中じゃなかったのか? 辺りを見渡すと、周囲の生徒はすでに各々好き勝手に散らばっている。どうやら授業はもう終わって、昼休みに入ったところなのだろう……イヤホンをしていて、終業のチャイムに気がつかなかったというわけだ。まぁ、あたしにとってチャイムに気付かないことぐらいは日常茶飯事なのだが、そのことに頭突きで気づかされたのは生まれてこのかた初めてだった。
つまるところ、この少女の存在だけが明らかにあたしの日常に反していたのだ。
「もーっ! なんなのアンタ、昨日から!! あたしに付きまとわないでよっ!!」
もうこの際、ハッキリと言ってやった。
あたしは辛辣な言葉を頭で模索し、並べる。
「邪魔なのよ! あたしは別に誰とも友達になんてなりたくはないのっ、これっぽちも! まさかいつも一人だからって同情してくれたわけ? おあいにくさま、そういうのもう間に合ってるんで。さっさとどっか行ってくれません?」
ここまで言ったら、さすがのコイツでも理解してくれるだろう。大声を出してしまったせいでだいぶ人の注目を集めてしまったが、この際しょうがない。いつもの平穏な生活を取り戻すためだ。これぐらいの代償はくれてやろう。
少女はあたしの怒声を受け、目線を下に落とした。
そう――それはまるで、幼い子供が興味本位で近づいたオオカミに突然吠えられ、怯えているかのように。
おぉ……手応えあり。やっとあたしがアンタを邪険にしている事に気付いてくれたか。
これであたしの安穏な生活も取り戻されるというわけだ。いや~、良きかな良きかな。これで一件落着である。
だが……この少女、そこまで簡単な人間じゃないらしい。
なんと――彼女の落とした視線の先には、自らの手。そして――そこに持たれているのは、黄色い布に包まれた奇妙な四角い箱。
「…………あの~……それ、は……」
あたしは恐れ慄きながら尋ねる。
だが彼女は何の反応も見せずに、あたしの前の席に極自然に座ると、椅子をこちらに向けて手に持っていた布をオープン。そして、そこにはタッパーウェアの容器に入った、それはそれは美味しそうな……
「いやいやいやっ、帰りなさいよっ! 今の絶対意気消沈して帰るところでしょっ!? 今帰らないでいつ帰るのよっ! っていうか、何ナチュラルに弁当食おうとしてんのよっ!!」
そんなあたしの全力の突っ込みさえも無視して、すでに口をもぐもぐさせて食事を始めている傲慢少女。その食べ物を詰めて膨らんだ頬を、あたしはこれでもかというほど引っ張ってやる。
「お~い、聞いてますかっ。 早く帰れ~っ!」
彼女は痛そうに眼を瞑る。
そして痛みに耐えかねたのか、その硬く結ばれていた口が突然開かれる。
……必然的に、重力に従順な口内物が唾液と一緒に流れ落ちた。
「うわっ、おまっ、汚なっ!!」
最悪だ。
いや……災厄だった。
「早く口閉じなさいよっ! もうっ、何なのよアンタ、ホント……っ」
あたしは机の上に放たれた少女のソレを嫌嫌ティッシュで処理する。あぁ汚い汚い……なんであたし、今こんなことしてるの?
少女は悪びれた顔はするものの、それでもなお席を立とうとはしなかった。意地でもここに居座るつもりらしい。
「…………はぁ~……」
あたしはとうとう諦めた。
そもそも、こんなことに時間を割いていること事態が、あたしには無駄だった。ここは手っ取り早くすませ、とりあえずコイツのことは適当にあしらっとくことにしよう。
あたしは彼女のソレを早々に処理し終えると、目の前の彼女を完全無視して、机の中の作詞ノートに意識を戻した。
右手にシャープを握り、左手は額に添えて前方の視界を遮った。寝不足気味の頭を懸命に働かせ、メロディーを追って言葉を詰めていく。
……。
…………。
……………………やっぱ、集中できなかった。
意識がどうしても前方の少女に向いてしまって、捕えられるはずの言葉たちが手近で拡散するかのように散らばって逃げていってしまう。
そしてさらに、あたしの意識はまた余計な所に行き着いてしまう。
――彼女の昨日の行動を思い出す。
あたしの歌詞を指差し、恥かしい想いをさせられた、あの時のことを……。
無性に前方の視線が気になり、あたしはゆっくりと視線をあげる。
――案の定、彼女の視線はあたしのノートに向いていた。
(パタンッ!!)
あたしは勢いよくノートを閉じる。その間、コンマ1秒ほど。
少女はどこか残念そうな顔をしたが、やがて自らの食事に再び没頭する。
……弱った。
コイツがいたら、あたしは何もできない……というか何だコイツ、少しは憚れよっ。
あたしは何だか凄まじく気疲れしていた。
これはもう……なんかもうどうしようもない。何もかもが、なんかもう、もうどうしようもない。
作詞ができない今、あたしに残された時間を有効に使う唯一の手段は栄養補給だけだった。あたしは自分の鞄から今朝コンビニで買ってきた菓子パン二個とコーヒー牛乳を取り出す。いつも買っているものと同じやつだ。甘い物は頭の回転を良くする。それにパンは片手間で摂取することもできる。
包装を破り、中のパンを頬張る。甘いジャムの香りが口の中いっぱいに広がる。
……今思うと、これではあたしがこの少女と一緒に昼食を取っているようではないか?
何だかそれは物凄く気に食わないが、まぁこの際仕方のないことだろう。だってあたしには、他にする事がないのだから。 あたしがなぜ見知らぬ少女に対して妥協しているか真剣に考えつつパンを食べ進めていると、不意に彼女の目があたしのパンを射ぬいているのに気がついた。
……何をそんなに見る?
あたしがこんなの食べてて、何か悪いのだろうか。
少女はやがて、おもむろに口を大きく開いてそれをこちらに向けてきた。
……何のつもりだ? ……威嚇だろうか?
訝しく様子を窺うが、彼女はずっとその姿勢を崩さない。
一体何なのだ。もうコイツは何をしても本当に訳がわからない。もう無視だ、無視無視。
再びパンを頬張り始めると、次に彼女はあたしの手をトントンと叩きだした。
だからなんだっ、ハッキリ言えよ! まぁ言ってもイヤホンしてるから聞こえないけれど!
「何っ!?」
彼女はなぜかとても楽しそうな顔で、あたしのパンをまた指差す。そして、その指を自分の開いたままの口の方に移した。
……あぁ、そういうことか。
あたしは彼女の意図を理解し、少し考えて手でOKサインを作って見せる。パッと明るく嬉々とした表情で、彼女は口を開いて目を閉じた。
あたしはおもむろに机の片隅に置いてあった自分の消しゴムを彼女の口の中に放り込んでやった。やがて、嬉しそうに笑った彼女は、もぐもぐとプラスチックゴムを咀嚼。咀嚼……。咀嚼………………ダラァ~~~~。
「うわっ、おまっ、汚なっ!!」
最悪だ。
いや……これは自業自得だった。
彼女は、またもや口内物を机の上に垂れ流しにした。なんて行儀の悪いやつだろう、どんな教育を受けてきたのだか。それとも体に消化器官が備わっていないだけだろうか。
彼女はとても怒っているようだった。その表情で訳すとすると、「もぉ~お~。アタイ、怒りんこぷんぷんっなんだからねっ!」ってな具合だった。
想像して不覚にも軽く笑ってしまっていたあたしの手を、少女はペシペシと叩く。だが、それ程痛くはない。これで少しは仕返しができたというものだ。ざまー見ろ。
愉悦に浸っていると、彼女は仕返しとばかりに素早い動きで机上にあったあたしのコーヒー牛乳を引っ手繰ってきた。
「あぁっ! あたしの大事なカフェインっ!」
彼女は何の遠慮もなしにあたしの飲みかけのコーヒー牛乳をどんどんと口に流し込んでゆく。そして、タンッという軽い音が鳴りそうな勢いで空のパックが机の上に叩き置かれた。
「アンタ全部飲んだわねっ! 弁償しなさいよ、弁償っ!!」
彼女は「ふんっ、知らないもんっ。アタイ消しゴムのあとはコーヒーって決めてるんだものぷんぷんっ」というような、したり顔をしてみせた。
くそ……これではさっきのあたしの仕返しが帳消しじゃないか。また何か手を打たなければ……っ。
――と、あたしはそこまで考えて思考を止めた。
あたしは何を向きになっているのだ。こんな奴、構うだけ時間の無駄だと、最初に言ってたのはどこの誰だった?
「…………ふぅ……」
あたしはクールダウンし、さも何事も無かったかのようにまた自分の席についた。
どこか虚をつかれたように呆然とした彼女は、やがて少し寂しそうな顔をして、また手元の弁当を突っつき始めた。……どうやらあたしのパンはもう諦めてもらえたようだった。
それにしても、あたしは次コイツが現れた時のために何か対策を打っておかなければならなかった。また時間を無駄にさせられてはたまったもんじゃないから。
……なんだか昨日から、あたしはコイツの事で思考を使い過ぎだ。
冗談じゃない。早くこの非日常から脱しなければ……。
程なくして、不意に彼女は立ちあがった。
何事かと見上げると、どこか名残惜しげな表情をしている。そんな顔をするなっ、気色悪い。
時計を確認すると午後の授業の始業5分前だった。辺りの生徒も各々自分の座席に戻り始めている。
コイツに構っていたせいで、あたしは食事を全て取る時間さえ危うかった。急いで残りのパンを頬張っていく。彼女はそんなあたしを尻目に、極自然にどこかへと立ち去っていった。
……薄情な奴である。
時間になったらそそくさと帰っていくとは。それなら最初からこんなとこ来るな。
やがてあたしも食事を終える。だが、パサパサのパンを急いで頬張ったので喉が詰まりそうだった。あたしはコーヒー牛乳を飲もうと、そのパックに手を伸ばす。
――が、そこであたしは先程アイツにそれを全部飲まれたことを思い出した。
うわ最悪……このままだと窒息死しかねない。今から買いに行ってもいいのだけれど……。
困り果てていると、ふとあたしは視線の端にポツンと置かれたペットボトルを発見した。
……確かこれはアイツが持ってきていたやつだ。きっと忘れていったのだろう、中にはまだ半分ほどの緑茶が残っていた。
なるほどアイツも少しは役に立つらしい。あたしはそれを手に取り、コーヒー牛乳の仕返しとばかりに一気に飲み干してやった。
(でもそう言えば、これって間接キスなんじゃ……)
あたしは、ウザさが移りそうで怖いな……何て事を考えながら、自らの口元を制服の袖で拭った。
――外は一面の灰色世界だった。
少なくとも、あたしにはこの世界がそのように見えていた。
息もできないその世界へ、あたしが自ら出ていくことなど絶対にありえない。何故なら、あたしの辺りには色鮮やかで綺麗な花々がいつでも咲き誇って、あたしのことをずっと見守ってくれているだから……。
耳から響いてくるのは『花庭』。
美しい変拍子のピアノリフが切ない、とても扇情的な曲だ。センシティブなあたしも、おもわずセンチメンタルになる。もちろん、あたしの周りに本物の花など一輪も存在しない。
だが……その代わりといってはなんだが、あたしの周りには一面の真っ暗闇の世界が存在していた。
――あたしにはもう、何も怖いものなどない。何故ならこの暗闇が、あたしのことを外敵から守ってくれるのだから。
……気配がする。
おそらく……ヤツが現れたのだ。
あたしは軽く身構える。真っ暗闇な世界で、見えない敵と対峙する。
やがて、ヤツはあたしの手の甲や肩にヒット1ぐらいの細やかな攻撃を繰り出してくる。だが――あたしは決して動じない。もちろん、反撃にでるようなこともしない。
……世界は、驚くほど平和だった。程なくして、その攻撃もついに止む。あたしのヒットポイントはまだまだグリーンゾーンのままであった。
そして――あたしは確かに、前方のその気配が姿を消すのをこの肌で感じ取ったのだった。
…………やった。
そう……あたしは勝ったのだ。
ラスボス級に頑なだった、あの傲慢不遜少女に――。
一昨日の帰宅後、あたしはすぐにアイツから逃れるための術をあれこれと思案した。
結果、たどり着いたのがこの超暗幕アイマスクだった。
このアイマスク、何が凄いかというと、あらゆる邪魔な視界を遮断してくれるという優れものなのだ。ここでいう邪魔な視界というのは、言わずもがなあの少女の姿、形のことを指す。
さらにこのアイマスク、着けているだけ彼女を退ける力を備えている。例えば、アイマスクとイヤホンを付けているあたしにヤツが近づいてくる。だが、さすがに視覚も聴覚も閉ざされた人間にコンタクトを取ることはほぼ不可能。するとあら不思議、あそこまで頑なだった彼女も、さすがに諦めて立ち去ってくれるのだ。さらにあたし自信も彼女の事が見えないので何の反応もせずに済むという一石二鳥。
あぁ、なんという妙案だろうか。彼女のことを気にせずに済む分、頭の中で歌詞も考えることができるという完ぺきぶりだ。アイマスク様様である。ぜひ君も、希望に満ちた暗幕ライフを。今ご注文の方に限り、もれなくあたしの使用法解説書をお付けいたします。
どこぞの通販番組みたいになってしまったが、つまりは最強の武器を手にしたあたしにもう怖いものなど何もなかった。
アイツに不吉な手紙を渡されて早三日が過ぎ、そしてその奇妙な関係も昨日でようやく断たれたのだった。
今あたしは、とても平穏な昼食タイムをとても優雅に楽しんでいた。鼓膜を揺さぶる『Liking is life and Melody』のサビの旋律が、気疲れし切った体にとても心地よく響く。
いつものパンをいつものペースで食べ、いつものコーヒー牛乳をいつもの分量飲む。それは、なんて幸せなことなのだろうか。変わらないことの大切さを身を持って知った、そんな日々だったように今なら思えた。
十全なる幸福感で食事を楽しんでいたあたし。こんな幸せが、いつまでも続くと思っていた。
と――不意に、あたしは由来のわからない寒気を覚える。
……嫌な予感がする。
つまり――ヤツが現れそうな気配だった。
昨日、完全に撃退に成功したと思っていたが、まだ諦めていなかったのだろうか?
まぁいい……あたしには、この超暗幕アイマスクがある。今日もこれで返り討ちにしてやればいい話なのだ。
アイマスクは装着完了。程なくして、前方にヤツの気配を確認した。
やはり来たか……。何故あたしが彼女の来訪を事前に察知できたかは謎だが、まぁいずれにせよこんな予知能力、もう使う事もなくなるだろう。何故なら……今日ここで、あたしはコイツを完全に打ちのめしてやるつもりだからだ。
あたしは臨戦態勢をとる。
さぁ、この完全なる寝たふり形態をどのようにして突破する? ふふっ、無理だろう……何せ、この要塞を突破した者は、未だ一人としていないのだから。
彼女はやはり困っているようだった。なかなか攻撃を仕掛けてこない。
ふふっ、持久戦のつもりならあたしにも考えがある。この時間を使って、昨日作ったメロディーに歌詞を付ける作業をさせてもらうとしよう。あたしがBメロ部の一節を考えていると、不意に突っ伏していた机の上に、何か軽い振動のようなものが伝わってくるのを感じ取った。
……ん? ……何だ、これは?
音にすると『カコンカコンッ』という感じだろうか? 何かしらの軽い物体が机の上を跳ねているような、そんな振動があたしの腕に伝わってくる。
カコンカコンッ……。
カコンカコンッ……。
カコンカコ…………ああっ!!
ま、まさかコイツ……あたしのコーヒー牛乳っ!!
なんて卑劣なヤツだろう! よくも……よくもあたしの旧友をっ!!
くっ……カフェイン、お前の犠牲、絶対忘れにはしないっ……!!
死者を一名出すという、なかなか壮絶な戦いになってきていた。
相手もいつにも増して好戦的であった。こちらも気を引き締めて臨まねばならない。少しでも隙を見せれば……こっちが殺られる。
やがて、第二打目と思われる攻撃があたしに襲いかかる。
次は、唇に何か硬いとも柔らかいとも言い難い中性的な硬さの物質が、ぐいぐいと押し付けられてきたのだった。
……これは、何だ? ……よく考えるんだ。彼女があたしにしてきそうな事を。
これはおそらく、あたしに何かを食べさせようとしているのだ。そして……彼女があたしに、食べさせたがる物とは一体なんだ?
考えを巡らしていく……。
中性的な硬さで、それでいてアイツがあたしに食べさせたがるもの…………ああっ!!
ま、まさかコレ…………消しゴムっ!?
コイツ、まだ根に持っていたのかっ!? なんて執念深い女だろう!!
あたしはすんでで食い止めていたその消しゴムを唇で挟んで素早く奪い取り、プッとスイカの種を飛ばす要領でそれを何処かへ吹き飛ばした。
さ、さぁ……次は、何だ? ……もう何でもござれだ。かかってこい。
今のあたしは、何が来ても撥ね退けてみせる自信があった。
――と、意気込んでいたあたしに、唐突な新しい攻撃が加えられる。
第三打だった。
しかもそれは、今までのものとは比べ物にならないほどの大きな衝撃だった。
なんと彼女は――あたしの腰を、こしょこしょとまさぐってきた。
これは…………ヤバイっ!
不覚にも、あたしはこちょばしに弱いのだっ!!
ぐっ……。
ぐっ、ぐぐっ…………。
ぐぐっ、ぐぐぐぐっ……………………っ
「あぁーーーー、もうっ! 鬱陶しいっ!!」
――あたしの堪忍袋の緒が三日ぶりに切れた。……というか、結局のところ忍耐力で負けた。
この争いで分かったことは、視界と聴覚だけではなく触覚までも閉ざさなければコイツには勝てないということだ。
諦めたあたしは、自らのアイマスクを外す。
世界に光が戻ったと同時に――あたしの眼前に、大きなパンダの顔が現れた。
「…………あ、アンタ……何、それ?」
そのパンダの正体は……アイマスクだった。
もちろんあたしのではない。あたしのはクマさんだ。
つまり――目の前の少女が、パンダの顔のプリントのアイマスクを、その顔面に装着していたのだ。
…………何故?
「………………ふっ………………ふふっ…………」
何で、コイツまで……アイマスクを付けている……?
「…………ふふっ……ふふふふっ…………」
…………意味が、わからない…………っ!
「ふふっ、わぁはははははははは、あはははははははははははははははっ!!」
これはヤバイっ、笑いが止まらないっ。
コ、コイツ…………正真正銘のバカなのだろうっ!?
あたしは、久しぶりに心の底から笑っていた。周りの目なんてお構いなしに、全身で……。
とにかくとにかく、コイツの事が、面白くてしかたなかった……。
そして――なぜだろう。
この時あたしは、それほど悪くない空気感を、この身に感じ始めていた。
少し落ち着いて少女を見上げると、そこにいる彼女も何故かとても可笑しそうに、その端整な顔を満面の笑みで飾っていた。
「アンタ何それっ、あたしの真似でもしたかったのっ?」
あたしは腹を押さえながら少女に尋ねる。
少女は小さく笑いながらも、頬を仄かな赤色に染めていた。
どうやら図星のようだ。「ちょっ、恥かしいやん。言わんといてっ」という顔をしている。
「それにしてもアンタ、ギャグセンス有り過ぎっ。あたしの腹筋、弁償しなさいよっ」
あたしも、それにしょうもない冗談を返す。
――これはノイズだ。
いつだって綺麗な音で飾られたあたしの世界を揺るがす、無音のノイズ……。
あたしの耳は、すでに麻痺し始めていた。
立て続けに鳴らされた彼女というノイズが、あたしの体に馴染むように浸透しているのだ。あたしの耳は不覚にも……そのノイズをそれほど不快に感じなくなっていった。
続く
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